ペンとマスカラ

映画のメモと、思考の断片。

命はそれ自体としてすでに尊い

1年、すごく早かったようで、長くもあった。

いろいろなことがあったというよりも、日々の繰り返しで過ぎていった。

毎日、毎日、オムツとミルクと睡眠のサイクルを繰り返す。私たち大人よりずっと早く、ずっと短く。すべてが小さく、弱く、儚い。気がついたら消えてしまっているんじゃないかと、怖くなって何度も飛び起きた。

まだまだ、心配は尽きないけれど、たくさんの手助けのおかげでまずは1年、なんとかやってこられた。その間、幸いにして大きな怪我や病気もせず、つくづく運の良い子だと思う。命は、私の手とは別の理りで動いていて、私たちはほんの少し、それを手伝うことができるだけのようだ。

子どもはすごくかわいいけれど、私たちは彼にとって一時の宿でしかない。この世に産んでしまったのは私だから手助けは精一杯するけど、生きるのは彼の命によってだ。私も夫もいずれ死ぬ。残酷だけど仕方ない。人生は楽じゃない。でも楽しく生き抜ける。どんな生き方になっても、よろこびに満ちた人生になるように。

マタニティブルーズ

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成長とは、喪失の絶え間ない連続である。

10ヶ月の時間を経て私の体から失われたもの、目の前にある生命は腹の中から出てきた。しばしば陥るとされる産後のメランコリーは、新生児の育児がうまくいかないからなんだろうと思っていた。

腹の中の生命が、自分とは別の肺を使って呼吸をはじめたとき、私は気づいた。10ヶ月間感じ続けたあたたかな鼓動は、胎動は、もはや私の体からは失われてしまったんだと。

長い時間をかけて変容したはずの身体は驚くほどの早さで復元し、傷として残された生命の痕跡まで失われつつある。

そのかわり、目の前には新たな生命が、新たな存在として横たわっている。

私たちはふたつに分かたれた。

その事実が胸を騒がせる。言祝ぐべきことが、喪失の重みに押しつぶされそうになる。私たちはもう戻れない。

悲しいわけではない。ただ、ただ、その事実が涙となる。誰でもない、あの生命が外にあり、いま息をしているというただそれだけのことが。

子を産むことについて

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最初の記事にも書いたとおり、私にとって、子を産み母となる、という選択をしたことは大きな分岐点でした。ただ、そのように歩きはじめてから、なにかがすごく変わったかというと、実はそれほど変わりません。

親となるからには、子の背負えない責任を背負ってあげようとか、どんな子になるんだろうというごく一般的に語られてきたであろう期待以外は、特別な感情もなく、自然と(おそらくこの言葉がいちばん当てはまると思いますが)受け入れています。

もちろん、ときおり、子が自分のところへやってきてくれたことに言いようのない感謝を感じて泣いてしまったり、はたまた、出産のための準備に夫が協力してくれないとヒステリーを起こしたりはしているのですが。それは私のこれまでの傾向として特別なものではありません。強いて言えば、その傾向が子という対象によってさらに複雑な現象へと変化しつつあるのは感じます。

夫との関係もそう。これまで2人きり、互いを支えるということしか考えてきませんでした。なんでも半分こ。彼が私を支えてくれた時期もあるし、私が彼を支えている時期もある。自分がきちんと立っていられるから、彼も隣にいてくれる、というような、よく言えば独立的な、悪く言えば傲慢な、思いが強かったし、それは今でも変わりません。

ただ、妊婦となってわかったのは、自分の意思ではどうしようもないこと、というのが世の中には起こりうるし、それを乗り越えようと思ったら、周囲の人や環境の支えがどうしても必要だ、ということです。無職で失業手当を受給していたときも思いましたが、社会制度のありがたみを感じるのもこういうときです。普段は高い税金だなぁと思うわけですが、いざ、自分が動けない身になってみると、たとえ少ない額であっても、何らかの手当てが支給されるのは本当にありがたい。

普段から、誰かのおかげと思うような性格ではないですし、なんでも自分でやってきたという思いが非常に強いのですが、今度ばかりは、やっぱり会社の人や、家族に助けてもらえてよかったし、社会保障がまがりなりにもあってよかったと感じました。自分が何かしたことへの見返りではなく、純粋な手助けというものが世の中には存在する。そのことに、とてもほっとしました。

もし、赤ちゃんを産むかどうか悩んでいる同世代の方がこれを読んでいるのだとしたら、ぜひあなたの周囲の人を信頼してください、と伝えたい。私たちが想像する以上に、みんな協力的です。ニュースでセンセーショナルに取り上げられる妊婦いじめは、ごく少数の心無いひとたちの仕業です。それ以外の多くの声をあげないひとたちは、新しい生命の誕生を喜んでくれています。子を産むことで社会とのつながりを強く感じることができたのは、ほんとうにとてもいい変化だったと思います。

愛の深さ

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愛に深さなどないと思う。まして、差もない。愛とはある種の現象であって、影響の大きい小さいはあるにせよ、愛そのものの価値や深度について測る方法はない。

 

このブログには、私たちの子(あなた)に言いたいことを書いていこうと思う。万が一、あなたが大きくなる前に私が消えてしまっても、私の考えていたことを知ってもらえるように。

あるいは、私の言葉がつたなくて、うまくあなたに伝えられなかったときの、補足として。

 

私の愛は、あなたのそばに居ることではない。私の愛は、私の責任を全うすることと少し似ている。私は働いていたい。それは単なる要望としてというよりも、現実的に私たちが”文化的な”生活を送っていくうえで、必要だからだ。あなたはいずれ、日本の憲法にある「健康で文化的な最低限度の生活」の保障について知るだろう。そして、それが今の日本で少しずつむずかしくなっていっているということも。

 

あなたは近い将来、どうしていつも家にいないのか、と私を責めるかもしれない。そして、泣くかもしれない。私もきっと、泣くだろう。でも、私はあなたを愛していないから家にいないわけではない。

(論理的に言っても同値であるはずの言明「家にいるならばあなたを愛している」には多少違和感を覚える)

私はあなたを愛するからこそ、家にいない。

私の愛は、あなたを無事に、経済的にも文化的に豊かな環境の中で、育てていきたいという欲求の中にある。私は、将来経済的に困窮して、あなたに「どうして仕事をしなかったのか」と責められるより、今、泣いているあなたを置いていくほうを選ぶ。あなたを困らせたくないからだ。

 

あなた、という存在にとって、今だけの瞬間が数多く存在してることを、考えないわけではない。ひとつひとつの瞬間が、かけがえのないものだということも、考えたことはある。

でも、それはいつまでたっても、そうなのだ。あなたという人が生き続ける限り、あなたにとっても、私にとっても、常に、今という新しい瞬間が訪れ続ける。私たちの関係は常に変化し続けるし、常に「今しかない」瞬間の連続だ。

 

私たちには、私たちの形がある。そして、私たちの一員として生まれてきたあなたには、できれば、私の愛はそういう形なのだと知ってほしい。理解できなくてもいい。ただ、それは愛なき行動だったのではない、ということを、知っていてくれたらと思う。

 

正しいだろうか?私の愛の形は?

正直なところ、私にもわからない。ただ、私が与えられるのはこのような形だとしかいえない。

充分ではないだろう。理想からは遠い。言い訳なのかもしれない。ただ、私はそういう方向での努力をすることがあなたにとっていいと信じている。いま私が選び取れる未来のなかで、愛の形のなかで、最善を選んだつもりだ。

(いつか、自分の限界の中で最善を探してもがく話をしよう)

 

私の愛は、ただそばにいることではない。あなたが育っていく養分となり、空気となり、やがてあなた自身となるもののうちに、存在するということだ。だからきっと、あなたが生きていてくれるということが、私にとって最大の愛なのだと思う。

おんな、であることについて。

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ブログタイトルは、そういう葛藤のようなもの。

言葉で解決しようとして、できなくて、女であろうとして、できなくて、どっちつかずでここまで来ました。

さて。ちょうど4ヶ月前、我が子宮に突如、異変が起こりました。ありていに言うと、卵子が着床し、新しい生命がこの体内で息づき始めたということになります。もっと簡単に言うと、妊娠しました。

まあ、自分のことなので、もちろん原因はわかっているわけですが、それにしても驚きました。驚いたと同時に、嬉しかったし、どこかで、眼が醒めたような感覚をおぼえました。

この気分を説明するには、すこし時間をさかのぼる必要があります。

一年、いやもう本当はずっと前からだったのかもしれませんが、私は年齢と出産の関係を真剣に考え始めました。出産は肉体の出来事であり、年齢も肉体の変化を含みます。それは、私という自我とはほとんど関係なく進行する事実として、精神を圧迫し始めていました。

つまり、女の体に生まれてしまったということが、私という自我にとって、かなりの重荷になり始めていました。子宮をもち、それなりに排卵もし、それを毎月毎月血として排出し続けることに、ずっと責められているような、息苦しさを感じていました。

さいわい、私の周囲にはそういったことに配慮のない人間は少なかったですし、会社からなんらかのプレッシャーを与えられるということもありませんでした。ただ、私の自我と肉体の問題として、避けて通ることができなくなりつつあったのです。

産める体であるのかどうかということと、産みたいのかどうかということ、さらに産んだところで育てられるのかどうかということ、おおよそこの三つくらいがつねに頭の周囲30センチくらいのところを周回しており、離れませんでした。

それと同時に、自分の配偶者との関係にも、当然考えが及びました。彼は子供がほしいと思っているのだろうか?私に年齢的な限界があるということをわかってくれているのだろうか?私が下した結論を受け入れてくれるだろうか?これもまた、頭の周囲を埋める問題と交差するように周回していました。あのときの私は原子モデルのようにさまざまなものに取り囲まれていました。

私たちの未来は分岐しうるのだということを、それまで真剣に考えなかったわけではありません。ところが、年齢的に限界が近づくにつれ、私は、その分岐点が、つまり子供がいる未来といない未来が決定的に分かたれるときが、確実に近づいているということを実感するようになりました。

私にとって、それは一度死ぬのと同じ意味です。不可逆な時間の流れの中で、たどり着いた未来で、選ばなかった可能性について、自分がどう思うのか、想像すらできません。それはひたすらに「私」の問題でしたし、そのときほど、可能世界の無力さを感じたことはありませんでした。あんなにクリプキのことを調べたのに、可能世界はただの可能性であって、「私」にとってなんの意味もなくなってしまったのです。

それでも苦労して、未来を想像してみます。2人きりで年をとっていったとき。それはそれで楽しそうでした。金銭的に余裕もできるでしょうし、好きなときに好きなことができるでしょう。趣味を追求することもできそうだったし、予算があえば移住も可能そうでした。これはこれで、とっても素敵だな、お互いを大切にできそうだな、そんな風に思いました。

一方で、子供がいるとき。驚いたことに、私はなんの想像もできませんでした。自分自身がどうなってしまうのか、何を感じ、何につらいと思うのか、想像しようとすればするほど未来は実感のない真っ白な虚になってしまいました。ほとんど、恐怖に近いような予測不能な未来が、すぐそこにありました。もちろん、一般に起こるだろう出来事は予想できます。でも、相手は人間なのです。どうなるかわかりません。自分たちに健康な子供が生まれるかどうかだって、あやしいものです。無事に生まれてきたとして、その子が”理想的に”育ってくれるかだってわかりません。自分が、子供に暴力を振るわないとも限りません。

未来に空いた穴。よいとも、悪いとも、わかりませんでした。私ごときたまたまできた自我が判断できるようなものではなさそうだと、そのとき気づいたのです。

そうなると、その未来を受け入れることができるかどうかと、それが、2人の未来としてありうるのかどうか、に自然と焦点が絞られてきました。つまり、これまで私はかたくなに自分の女である部分を拒絶してきましたし、それが存在しないものとして生きようと半ば決めていたようなところもありました。が、これからは、もし、女という仕組みが有効なものだったら、それを生かすことが可能なのかどうか、を考えようという方向へシフトしていったのです。

この変化はすごくささいで、すごく微妙な変化でした。

女、という仕組みをもって生まれた私が、自我と、その仕組みとの和解を図ろうとしていました。自我は、わがままです。苦労したくないし、お金がなくなるのもいやでした。でも、肉体のほうは、なんといったらいいのか、それが機能として十全なものだとしたら、自我に可能性をつぶされたくないと言っているように感じました。私の自我とは、そんなに偉いものだったでしょうか。自我はたまたま肉体に宿っただけの偶然でしかありません。

一番決定的であったのは、私自身、一度も可能性を試さずに、限界を超えたくなかったということにあります。意図的にずっと子供を作らずにきたのは、ひとえに、自我のたまものでした。経済も、タイミングも、とくに理由ではありません。私は、単純に、特別子供がほしいと思ったことがなかったのです。

でも、肉体の限界が近づくにつれ、そう単純でもなくなってきました。「もし」

がずっと頭にひっかかっていたのです。「もし、本当は子供が産めたのに、産まなかったのだとしたら」「もし、子供を産んでいたら得られた幸せが、自我のせいで得られなかったのだとしたら」私の自我は、おそらくその重みに耐えられなかったでしょう。私は、肉体の要請に負けたともいえるのかもしれません。

試す、とはいっても相手のある話なので、かなり混乱しながらも配偶者と話し合いました。結論としては、お互い子供がいてもいいと思っている、という事実が判明したため、じゃあ特別今後は警戒しないでおこうということになりました。出来たら産めばいいし、出来なかったらそういう2人の将来でもまた、いいじゃないかと。

そういう話し合いができたことは、私にとって幸運だったのかもしれません。大切な人との間に垣根を設けたくないというのは私の自我のわがままでしたし、その結果として肉体が授かることになる子供までまるごと受け入れてくれると言ってくれたのですから。

それからほどなくして、もともと遅れ気味だった月経周期がさらに遅れ、いよいよおかしいということで検査した結果陽性。まだ信じられず婦人科へいくと、これまで見たことのない黒い空間が子宮にできあがっていました。そうか、これが私の肉体の答えなのかと驚くほど爽快な気持ちになりました。新しい生命の始まりとともに生き返ったような、そんな気分でした。

私の未来はそのとき分岐し、私たちは子供の居る家庭という未来へ向けて歩き始めることになったのです。

今の気分。子供を産むことになったとき、私は不思議と、これまでとらわれていた「女であること」への確執を手放せる気がしました。この結果は、私の自我の決断ではなく、肉体の決断だったからです。女の仕組みを持って生まれて、その仕組みが機能した。そこに私の自我が関われたのは、ただ、可能性を肉体に任せる、と決めた瞬間だけでした。私は女の仕組みをもって生まれたけれど、結局ここまでのところ、一度も、それを自我でコントロールできたことはなかったということです。

なりゆき、という言葉はよくできています。いきおい、というのもなかなか的を射ている。自我は冷静で客観的に教えを告げてくれますが、生命というのは、どうもそれを超えています。女、であることをいくら考えても、いくらコントロールしようとしてもうまくいかなかった私が、肉体によって、女であらざるを得なくなりました。いや、もっというと、女であることさえもう過ぎてしまって、ゆりかごのような気分です。おそらく今後は、もしかすると「母」であることを要請されるようになり、それはそれで、いろいろと悩ましくあるんでしょうけども。

 

どうも、これまでとは気分を変えたいという思いもつのり、ブログも変えることにしました。

書く内容は変わらないでしょうが。

ペンは私にとって、手放せなかったもの。書く行為をなくしたら、私は呼吸ができない。マスカラは、女でありたかった時間の名残り。口紅でも、アクセサリーでも、香水でもなく。それは一番私にとって、特別な時間でした。

生命のはじまりが、いつか私がいなくなったときに、この記録を目にして、そんなこともあったのだと思ってくれることをわずかに期待しつつ。自我の断片として。