ペンとマスカラ

映画のメモと、思考の断片。

おんな、であることについて。

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ブログタイトルは、そういう葛藤のようなもの。

言葉で解決しようとして、できなくて、女であろうとして、できなくて、どっちつかずでここまで来ました。

さて。ちょうど4ヶ月前、我が子宮に突如、異変が起こりました。ありていに言うと、卵子が着床し、新しい生命がこの体内で息づき始めたということになります。もっと簡単に言うと、妊娠しました。

まあ、自分のことなので、もちろん原因はわかっているわけですが、それにしても驚きました。驚いたと同時に、嬉しかったし、どこかで、眼が醒めたような感覚をおぼえました。

この気分を説明するには、すこし時間をさかのぼる必要があります。

一年、いやもう本当はずっと前からだったのかもしれませんが、私は年齢と出産の関係を真剣に考え始めました。出産は肉体の出来事であり、年齢も肉体の変化を含みます。それは、私という自我とはほとんど関係なく進行する事実として、精神を圧迫し始めていました。

つまり、女の体に生まれてしまったということが、私という自我にとって、かなりの重荷になり始めていました。子宮をもち、それなりに排卵もし、それを毎月毎月血として排出し続けることに、ずっと責められているような、息苦しさを感じていました。

さいわい、私の周囲にはそういったことに配慮のない人間は少なかったですし、会社からなんらかのプレッシャーを与えられるということもありませんでした。ただ、私の自我と肉体の問題として、避けて通ることができなくなりつつあったのです。

産める体であるのかどうかということと、産みたいのかどうかということ、さらに産んだところで育てられるのかどうかということ、おおよそこの三つくらいがつねに頭の周囲30センチくらいのところを周回しており、離れませんでした。

それと同時に、自分の配偶者との関係にも、当然考えが及びました。彼は子供がほしいと思っているのだろうか?私に年齢的な限界があるということをわかってくれているのだろうか?私が下した結論を受け入れてくれるだろうか?これもまた、頭の周囲を埋める問題と交差するように周回していました。あのときの私は原子モデルのようにさまざまなものに取り囲まれていました。

私たちの未来は分岐しうるのだということを、それまで真剣に考えなかったわけではありません。ところが、年齢的に限界が近づくにつれ、私は、その分岐点が、つまり子供がいる未来といない未来が決定的に分かたれるときが、確実に近づいているということを実感するようになりました。

私にとって、それは一度死ぬのと同じ意味です。不可逆な時間の流れの中で、たどり着いた未来で、選ばなかった可能性について、自分がどう思うのか、想像すらできません。それはひたすらに「私」の問題でしたし、そのときほど、可能世界の無力さを感じたことはありませんでした。あんなにクリプキのことを調べたのに、可能世界はただの可能性であって、「私」にとってなんの意味もなくなってしまったのです。

それでも苦労して、未来を想像してみます。2人きりで年をとっていったとき。それはそれで楽しそうでした。金銭的に余裕もできるでしょうし、好きなときに好きなことができるでしょう。趣味を追求することもできそうだったし、予算があえば移住も可能そうでした。これはこれで、とっても素敵だな、お互いを大切にできそうだな、そんな風に思いました。

一方で、子供がいるとき。驚いたことに、私はなんの想像もできませんでした。自分自身がどうなってしまうのか、何を感じ、何につらいと思うのか、想像しようとすればするほど未来は実感のない真っ白な虚になってしまいました。ほとんど、恐怖に近いような予測不能な未来が、すぐそこにありました。もちろん、一般に起こるだろう出来事は予想できます。でも、相手は人間なのです。どうなるかわかりません。自分たちに健康な子供が生まれるかどうかだって、あやしいものです。無事に生まれてきたとして、その子が”理想的に”育ってくれるかだってわかりません。自分が、子供に暴力を振るわないとも限りません。

未来に空いた穴。よいとも、悪いとも、わかりませんでした。私ごときたまたまできた自我が判断できるようなものではなさそうだと、そのとき気づいたのです。

そうなると、その未来を受け入れることができるかどうかと、それが、2人の未来としてありうるのかどうか、に自然と焦点が絞られてきました。つまり、これまで私はかたくなに自分の女である部分を拒絶してきましたし、それが存在しないものとして生きようと半ば決めていたようなところもありました。が、これからは、もし、女という仕組みが有効なものだったら、それを生かすことが可能なのかどうか、を考えようという方向へシフトしていったのです。

この変化はすごくささいで、すごく微妙な変化でした。

女、という仕組みをもって生まれた私が、自我と、その仕組みとの和解を図ろうとしていました。自我は、わがままです。苦労したくないし、お金がなくなるのもいやでした。でも、肉体のほうは、なんといったらいいのか、それが機能として十全なものだとしたら、自我に可能性をつぶされたくないと言っているように感じました。私の自我とは、そんなに偉いものだったでしょうか。自我はたまたま肉体に宿っただけの偶然でしかありません。

一番決定的であったのは、私自身、一度も可能性を試さずに、限界を超えたくなかったということにあります。意図的にずっと子供を作らずにきたのは、ひとえに、自我のたまものでした。経済も、タイミングも、とくに理由ではありません。私は、単純に、特別子供がほしいと思ったことがなかったのです。

でも、肉体の限界が近づくにつれ、そう単純でもなくなってきました。「もし」

がずっと頭にひっかかっていたのです。「もし、本当は子供が産めたのに、産まなかったのだとしたら」「もし、子供を産んでいたら得られた幸せが、自我のせいで得られなかったのだとしたら」私の自我は、おそらくその重みに耐えられなかったでしょう。私は、肉体の要請に負けたともいえるのかもしれません。

試す、とはいっても相手のある話なので、かなり混乱しながらも配偶者と話し合いました。結論としては、お互い子供がいてもいいと思っている、という事実が判明したため、じゃあ特別今後は警戒しないでおこうということになりました。出来たら産めばいいし、出来なかったらそういう2人の将来でもまた、いいじゃないかと。

そういう話し合いができたことは、私にとって幸運だったのかもしれません。大切な人との間に垣根を設けたくないというのは私の自我のわがままでしたし、その結果として肉体が授かることになる子供までまるごと受け入れてくれると言ってくれたのですから。

それからほどなくして、もともと遅れ気味だった月経周期がさらに遅れ、いよいよおかしいということで検査した結果陽性。まだ信じられず婦人科へいくと、これまで見たことのない黒い空間が子宮にできあがっていました。そうか、これが私の肉体の答えなのかと驚くほど爽快な気持ちになりました。新しい生命の始まりとともに生き返ったような、そんな気分でした。

私の未来はそのとき分岐し、私たちは子供の居る家庭という未来へ向けて歩き始めることになったのです。

今の気分。子供を産むことになったとき、私は不思議と、これまでとらわれていた「女であること」への確執を手放せる気がしました。この結果は、私の自我の決断ではなく、肉体の決断だったからです。女の仕組みを持って生まれて、その仕組みが機能した。そこに私の自我が関われたのは、ただ、可能性を肉体に任せる、と決めた瞬間だけでした。私は女の仕組みをもって生まれたけれど、結局ここまでのところ、一度も、それを自我でコントロールできたことはなかったということです。

なりゆき、という言葉はよくできています。いきおい、というのもなかなか的を射ている。自我は冷静で客観的に教えを告げてくれますが、生命というのは、どうもそれを超えています。女、であることをいくら考えても、いくらコントロールしようとしてもうまくいかなかった私が、肉体によって、女であらざるを得なくなりました。いや、もっというと、女であることさえもう過ぎてしまって、ゆりかごのような気分です。おそらく今後は、もしかすると「母」であることを要請されるようになり、それはそれで、いろいろと悩ましくあるんでしょうけども。

 

どうも、これまでとは気分を変えたいという思いもつのり、ブログも変えることにしました。

書く内容は変わらないでしょうが。

ペンは私にとって、手放せなかったもの。書く行為をなくしたら、私は呼吸ができない。マスカラは、女でありたかった時間の名残り。口紅でも、アクセサリーでも、香水でもなく。それは一番私にとって、特別な時間でした。

生命のはじまりが、いつか私がいなくなったときに、この記録を目にして、そんなこともあったのだと思ってくれることをわずかに期待しつつ。自我の断片として。